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第5回で登場した樋口勝見上等機関兵曹(レイテ沖海戦で戦死)を祀る 屏東県枋寮の龍安寺から車で5分足らずのところに、東龍宮という廟がある。
この廟は「田中綱常(つなつね)」という日本人を祀る為に建立されたものだ。
綱常を取り巻く様に祀られている4人もまた皆日本人だ。
台湾に星の数ほどある廟の中でも、祀られる神が全て日本人という廟は恐らくここだけであろう。
様々な御利益を得られると地元では評判で、参拝者が後を絶たない。
その為もあるのだろうか。筆者が訪問する度に増築が繰り返されている。

女性道士でありこの廟の住職でもある石羅介さんは、当時居住していた北部の基隆で綱常からのお告げを受け、早速自宅近くに小さな祭壇を設けた。
その後も度々お告げを受けることになる。
1996年には現在の地、枋寮で廟を建てるよう お告げがあり、地元の事業家から寄付を募って1998年に現在の立派な 廟を完成させた。

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綱常は天保13年(1843年)生まれ、明治維新前は薩摩藩士だった。
維新後陸軍に入隊したが、後に海軍にへ転身し、海軍少将で退役している。

綱常と台湾との縁は数十年に及ぶ。
最初の縁は29歳の陸軍大尉時代だ。
明治4年(1871年)、琉球の民66人が台湾で遭難し、先住民パイワン族に54名が斬首されたいわゆる「牡丹社事件」。
この3年後、明治7年(1874年)に日本軍は西郷従道中将率いる「征台の役」を敢行するが、それに先立ち23名の先遣部隊を派遣している。
この中の一人が若き綱常であった。

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次は日本の領台直後の明治28年(1895年)、綱常53歳。退役直前に海軍少将として赴任している。
まずは、領台直後の軍政官として澎湖列島行政庁長官に就任、その後台北県知事を拝命する。
その時の台湾総督が初代総督となる海軍大将樺山資紀であった。 樺山は綱常と同じ薩摩の出身。
牡丹社事件の陸軍先遣部隊として綱常と共に台湾に渡り、綱常より3年早く陸軍から海軍に転身していたのであった。
右の写真は台湾総督としての樺山が綱常に陣中見舞いとして送った目録だ。
時期から推察するに、澎湖列島行政長官赴任時の陣中見舞いと推測される。

また、綱常は明治23年(1890年)の海軍大佐時代、「エルトゥール号事件」の遭難者をトルコまで送還した軍艦「比叡」の艦長として時のオスマン朝皇帝に謁見している。
その後は貴族院議員などを勤め、1903年62歳で亡くなっている。

さて、石羅介さんを介して綱常はどのようにして現代に甦ったのであろうか?元々霊能者としてお告げを聞く能力を持つ石羅介さんは、ある日不思議なお告げを聞いた。
何やら日本語らしい外国語でのお告げの為、日本語を解する老人にその内容を逐一通訳してもらった。
すると、どうやら石羅介さん自身は田中綱常という台湾に縁のある将軍の生まれ変わりである、というお告げらしい。
驚いた石羅介さんの家族や近所の住民は、すぐに田中綱常なる人物を探し始めた。
すると、なんと実在する人物であった。
ちなみに、石羅介さんは戦後の生まれで全く日本語を理解することが出来ない。
無論、家族にも誰一人日本語を解する人はいない。

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石羅介さんはその後も綱常から次々とお告げを受けている。
ある日のお告げは、日本軍が掘った洞窟の場所を指示され、実際そこへ足を運ぶと、日本軍が使ったと思われる日の丸が出て来た。
廟には今でもその日の丸が掲示されている。

また、廟の中央に座る大きな田中大将軍像(綱常の像)を守るように四体の日本人像が鎮座しているが、これもまたお告げによるものだそうだ。
左から川山(碑文には「北川」とあるが正しくは「川山」だそうだ。)賜穿(もしくは「川」)、良山秋子、中山奇(もしくは「其」)美、そしてかの乃木希典将軍の順だ。

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この頃のお告げでは既に、天界の綱常と現生の石羅介さんとの間では、台湾語もしくは中国語で直接やりとりすることが出来るようになっていたようだ。
その為、これらのお告げは中国語発音で伝承され、それをしかるべき音の漢字にあてはめてみた。
しかし、お告げを受けた本人達も果たしてこの漢字が正確なのかはっきりとは確信が持てていない。
それでもそれぞれの人物の役割ははっきり告げられていた。
川山将軍は牡丹社事件後の征台の役において西郷従道大将の下で一隊長として活躍した人物であり、中央二人の女性は、先遣部隊として綱常と共に台湾に渡った時の看護婦ということだ。

他の3人と違って、乃木希典将軍は直接綱常と行動を共にしたわけではないが、台湾にゆかりの深い人物の一人として祀られている。
田中大将軍の大きな像の前を守る4体の像として、謙虚に鎮座している。
現代の歴史観から見るといささか格が違うようにも見えるが、綱常から見れば乃木は6歳下の後輩に当たり、改めて当時の上下関係が偲ばれる構図でもある。

従来と今回のコラムの根本的な差は、故人の功績が地元の方により繋ぎ語られてきた故事であるか、お告げなどある意味宗教的なもので故人と結び付けられたものであるかという違いにある。
前者は徐々に少なくなって来ており、後者のようなケースは依然多く存在する。
しかし、後者の中にも、時が経つにつれて事実があやふやになり、管理者も曖昧になってしまって来ているケースも少なくない。
それでも、この東龍宮は石羅介さんがこれまでの人生を投げ打ち、残りの人生かけてお告げに従う信心深さとそれに呼応するかのような参拝者の多さでは群を抜いている。

その信心深さは石羅介さんの子孫にまで伝播している。
現在、石羅介さんのご子息である 李光立さんが中心となって、綱常の遺族を探索中だ。
綱常には後継ぎが無く、娘が一人だけいたと言われてきた。
しかし、李光立さんが海上自衛隊の外郭団体である水交会を通じて照会したところ、綱常には「田中仁之助(1876年生)」という 息子がいたという情報を得た。
仁之助は晩年、ホノルルで暮らしていたようだが、その子孫の消息は追えていない。
また、娘は内山小二郎陸軍大将に嫁いだ。
その内山には三男三女の子がおり、息子は3人とも父に倣って陸軍に入隊した。
李光立さんは長男定吾(陸軍中将・後に小二郎の兄の養子となる)、二男雄二郎(陸軍大尉)、三男豪三郎(陸軍大佐)の遺族を中心に探索しているが、3人とも既に故人となり、その子孫も分からぬままだ。
お告げと史実が繋がる奇蹟まであと一歩。
もしお心当たりの方がいらっしゃれば、本コラム運営のLinkBiz台湾( info@linkbiz.tw)までご連絡頂ければ幸いである。

※追記
本文において、東龍宮がお祀りしている日本人の一人として「川山将軍」と記載しているが、本コラム執筆時の2014年以降、石さんによる調査の結果、この日本人は「北川直征将軍」であることがわかった。(2016年3月25日更新)

著者紹介

渡邊 崇之:亜州威凌克集団 代表

渡邊崇之

1972年生まれ。中央大学卒。
学生時代に、東京都主催の青少年洋上セミナー訪中団、旧総務庁主催の世界青年の船、 青年韓国派遣団へ参加。バックパッカーとしても世界約50カ国を歩き回る。
特に中国・韓国へは数を多く足を運び、北京での留学や釜山での日本語教師生活の傍ら、旅行・貿易・小売業を手掛ける。
1996年、日本の一部上場経営コンサルティング会社に入社。 数々の支援先フランチャイズ本部の店舗ビジネス立上や上場支援に携わる。
2004年、アジア担当役員として「台湾経由中国戦略」を提唱し、実際に台湾・香港・中国に子会社を創設する。その後台湾に移住。
2010年、会社の戦略変更により、同社を退社してアジア各社をMBO。自ら事業を継承することとなる。
現在は在アジア日系企業の経営支援、及び日本企業のアジア進出支援コンサルティングを手掛ける一方で、アジア各地で実際に複数業態の店舗ビジネスを展開している。
多くの中国・韓国青年達と交流した経験からアジア近代史への問題意識が強く、帰国後もその研究を続ける。
台湾移住後は、主に台湾と日本の歴史的関わりを研究。特に台湾の日本語世代との交流が深い。